G七十士の墓,三田村氏館跡

七十士の墓

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姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。

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石塔は五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)からなりますが、その形態は姉川合戦があった戦国末期のものといえ、伝承を裏付けています。なお、この石塔群は三田村城の城主であった三田村左衛門一族の墓との説もあります。


国指定史跡三田村氏館跡(三田町)

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京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。ほぼ60メートル四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高さは2メートルから3メートル、幅も平均5メートル程度を測ります。北側の土塁の一部は近代になって破壊されましたが、西側には館の入口にあたる虎口(こぐち)が良好に残り、その前には堀跡が畑となっており旧状をしのぶことができます。

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また、四角い主郭の北側にも、鍵形に土塁が存在し、複数の郭からなる城館であったことが類推されます。長浜市教育委員会による平成17年度・18年度の発掘調査により、西側土塁に平行する南北2本の溝が確認され、土塁が2時期に分かれて築造されたことが分かりました。上部(新層)からは15世紀から16世紀前葉頃の土師器を中心とした遺物が出土し、戦国時代に至り館の防御性を高めるため、土塁を高くしたことが明らかとなっています。

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姉川合戦に際しては、朝倉景健(かげたけ)の本陣として使用されたとも考えられ、上部の土塁はその時盛られたものかもしれません。平成19年7月26日、「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡となりました。


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