H浅井長政と陣田,血川と野村

浅井長政と陣田

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当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっていました。

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しかし、28日未明に至り、重臣の遠藤直経の進言に従い、当地に軍を進めたとされます。昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備まで、当地には「陣田」と呼ばれる小高い丘が存在し、浅井長政の本陣跡と伝えて来ました。野村に展開した浅井全軍を見渡せる格好の位置は、伝承の正しさを物語っていると言えるでしょう。

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なお、野村集落内には、現在も複数の土塁が認められ、野村氏や多賀氏などの浅井氏家臣屋敷の痕跡と考えられていますが、姉川合戦では浅井軍の陣所として使用された可能性もあります。


血川と野村の史跡(野村町)

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この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起きた姉川合戦に際して、浅井長政の軍隊が陣を置いた野村集落の南に当たります。対岸の織田信長軍と戦った浅井軍は、最初優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川軍の加勢を受けた信長軍の攻勢により、敗退したと伝えられています。

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この案内板の下には、かつて姉川合戦に際して血に染まったと伝えられる血川が流れていました(その川幅は、この看板の幅と同じです)。おそらく、信長軍によって追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたと考えられますが、昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備により流路がなくなりました。なお、ここから約300メートル南東にある「塚町」は、合戦の戦死者を葬った場所とも言われ、血川との関連が想定されます。


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