@姉川古戦場,血原,本陣

姉川古戦場

[地図をみる]

『日本戦史』によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。なお、合戦があった太陰暦6月28日は、ユリウス暦(西暦)では同年7月26日に当たります。


血原と三田村氏館(三田町)

[地図をみる]

合戦直前の6月24日、浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3キロに当たる大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政・景健の両将は姉川北岸に前進、織田・徳川軍と決戦を決断しました。朝倉景健の本陣は、この北西にあたる三田集落内の三田村氏館におかれ、徳川家康の本陣がおかれました。その中間にある当地は、両軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」と呼ばれています。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

両軍の戦いで、最も有名なのが朝倉軍の武将で、刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆の討死です。最初徳川家康の家臣、向坂(さきさか)式部と渡り合っていましたが、途中からその弟の向坂吉政が十文字槍をもって助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったと言われています。(『信長公記』には真柄の首を取ったのは青木一重と記されており、諸本によって多少異なるようです)


信長本陣と家康本陣(東上坂町)

[地図をみる]

浅井長政と戦うことになった織田信長軍は、6月19日に北近江に侵攻し、小谷城を見上げる虎御前山城に本陣を据え、小谷城下を放火して回りました。しかし、堅固な山城を一時に攻め落とすのは無理と判断し、24日には後方の横山城を包囲、信長本人は龍ヶ鼻に本陣を据えています。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、それを象徴するのが遠藤直経の討死です。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

直経は信長本陣深くまで攻め入り、味方の首級を一つ提げ、織田勢に偽装して信長の首をねらいましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討死したと伝えられています。現在、直経の戦死した場所には、その墓が残りますが、信長本陣の「陣杭の柳」の後方300メートルに当たり、織田軍が一時は後退し劣勢を強いられていたことを示すと考えられます。


<<戻る